概要
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オスマン帝国とは、ガズィー(gazî ムスリム・トルコ系戦士)を率いたオスマンの打ち立てた王朝である。
7代目メフメトII世 Mehmed II の時代、1453年には、コンスタンチノープル(イスタンブール)を陥落し、イスタンブールはその後、オスマン帝国首都として繁栄した。
1470年にはトルクメン人の白羊朝を滅ぼした。
ワズィール(vazîr 宰相制度)は次第にヒエラルキー化してヴェズィラザム(vezirazam 大宰相)が登場する。
大宰相府(Bab-ı Asafî)、財務長官府(Bab-ı Defteri)が創設され、書記官長(reis ül-küttab)が権力を握る。
イエニチェリ(yeniçeri 歩兵)を筆頭に、カプ・クル軍団(kapıkulu ocakları)という常備兵を活用したことで知られる。
1514年には、シーア派のサファヴィー朝、エジプト・シリアのマムルーク朝を滅ぼし、版図を広げた。
1529年には第1次ウィーン包囲が行われる。
16世紀中ごろには、バルカンおよびハンガリーにまで領土を拡張する。
第23代アフメドIII世 Ahmed III の時代は、チューリップ時代(Lâle Devri)と呼ばれ、対西欧宥和政策がとられたという。
Yirmisekiz Çelebi Mehmed Efendi は、「フランス使節記(Sefaretname-i Fransa)」を著したという。
第28代セリムIII世 Selim III 時代には大使館が創設された。
第30代マフムドII世 Mahmud II 時代には、大使館を近代化する。
1683年の第2次ウィーン包囲で敗戦する。1699年のカルロヴィッツ条約では、ハンガリーの大半の喪失した。
第30代目 マフムードII世 Mahmud III は1808年、イエニチェリ軍団を廃止した。
1839年~1876年には、タンジマート(Tanzimat)改革が行われた。恩恵改革ともいい、ギュルハネの勅令(Gülhane Hatt-i Hümayunu)が発令される。
ムスタファ・レシト・パシャ(1802~58)は、1856年2月18日に再度の勅令を発行する。
1876年にはオスマン帝国憲法を発布、第一次立憲制が始まる。
1908年には青年トルコ革命によって第二次立憲制が始まる。