独立
      History



パキスタンの独立は1947年8月14日にさかのぼります。
独立後すぐにカシミール地方の帰属をめぐって、第一次印パ戦争が勃発、その後第3次印パ戦争が終結、民政に移行するまで、軍政が続きます。

1958年にアユーブ・ハーンがクーデターで大統領に就任。
1959年には中国はチベットを侵略。1962年10月に中国とインドがラダック地方で交戦します。中国は11月にアクサイチンを占領。
パキスタンは中国とギルギット国境の協定を締結します。

1965年4月に第二次印パ戦争が勃発しました。同年9月22日に国連安保理の停戦決議で終結。
アユーブ・ハーン大統領は現バングラデッシュのアワミ連盟のムジブル・ラフマンを逮捕するなど弾圧を強め、批判を受けて失脚します。
結果、ヤヒヤー・ハーン陸軍参謀長が大統領に就任しました。
1970年12月には総選挙が行われ、現バングラデシュではアワミ連盟が、パキスタンではパキスタン人民党のズルフィカール・ブットーが当選。
ところが、ヤヒヤー・ハーン大統領は権力委譲に同意せず、現バングラデシュで1971年3月に内戦が勃発しました。
4月にはバングラデシュが独立を宣言。インドが軍事介入し、12月3日には第3次印パ戦争が勃発。
12月16日にパキスタン軍は東パキスタンで無条件降伏、バングラデシュは独立しました。
17日には西パキスタンで停戦し、ヤヒヤ・ハーン大統領は敗戦の責をとって辞任、ズルフィカール・ブットーが大統領に就任しました。
1972年7月2日に印パ首脳会談が行われ、シムラ協定が締結され、1971年10月2日の停戦ラインを国境とします。

ズルフィカール・ブット首相は1977年、ジアウル・ハック陸軍参謀長によって逮捕され、1979年には処刑されます。
ハック大統領の軍政は、1988年に飛行機事故でハック大統領が死亡するまで続きます。その後の選挙でベーナジール・ブットー首相が選出されます。
90年にはジャトイ政権、シャリーフ政権が続き、1993年~96年にベナジール・ブットー首相が再び選出され、その後1999年までシャリーフ政権が政権を握りました。

パキスタンは1985年にはウラン濃縮を開始し、1987年には中国から設計図を入手し、1990年には査察を拒否したため米側は軍事援助を打ち切ったといいます。

米国における1976年に定められた Symington 修正条約では、査察を受けずにウラン濃縮用施設や技術の供与を受けた国に対する援助を禁じています。
1985年には、Pressler 修正条項で、パキスタンが核爆発装置を保有していないこと、およびアメリカの援助計画がパキスタンの核保有のリスク軽減に貢献することを定めています。

1998年5月12日・13日にはインド、5月28日・30日にはパキスタンが核実験を行いました。

1998年4月には射程距離1500kmのガウリIミサイルを発射しています。ガウリIミサイルは、北朝鮮のミサイル、ノドンを原型とするものであり、軍事協力が非難されています。

1999年10月にはムシャラフ陸軍参謀長がクーデターで実権を握り、2001年に大統領に就任します。