歴史
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シーア派のイランは、スンニ派のアラブ諸国との対立がある。イラン人がアラブ人に対し、どのような民族意識を持つのか、歴史的には、イスラム教の入ってくる以前のペルシア帝国の記憶がある。

民族としてのイラン人の拠りどころである「ペルシア帝国」は、アケメネス朝ペルシア(550-330)にまでさかのぼる。強大なペルシア帝国は、ギリシアと対峙し、「王の道」に飛脚をリレーする命令伝達経路を作り上げ、アレクサンドリア大王(336-323)の遠征で滅びるまで栄華を誇った。大王の死後、分裂し、パルティア(248-226)、セレウコス朝シリア(312-63)などが建国される。ペルシア文化として伝えられるのは、ササン朝ペルシア(226-642)である。遠く日本にまでその文化が伝えられた。隋(581-619)、唐(618-907)の時代と重なる。

シーア派のそもそもの興りは、世俗王朝であるウマイヤ朝に対する反発である。新興イスラム教帝国であるウマイヤ朝(661-750)はアラブ人の国である。ウマイヤ朝を認めず、4代目正統カリフ、アリーを信じるシーア派が興る。

ペルシア人の部族は協力してアッバース朝(750-1258)を設立する。アッバース朝の末期には、サーマーン朝(874-999)、セルジューク朝(1037?-1194)、ホラズム(11-13世紀)、ガズナ朝(962-1186)など乱立した。モンゴルのイル・ハン国(1258-1411)がアッバース朝を滅ぼすまで栄える。エジプトでは、シーア派のファーティマ朝(909-1171)が建国される。

ティムール帝国(1370-1500)の支配の後、イラン人の国家、サファヴィー朝(1502-1736)が興る。サファヴィー朝がキルザイ族などアフガンからの攻略により崩壊、トルコ系のカージャール朝(1779-1925)が設立される。カージャール朝は欧米との癒着により、政権の維持はなったものの国土は荒廃し、パフレヴィー朝が建国される。油田の国有化など共産化を恐れた米国は、民族主義的運動を弾圧する王政と癒着し、聖職者らの反発を招く。イラン革命(1979)によって、追放されていたホメイニ師が政権を奪取する。