概要
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イランは中東の産油国の一つであり、アラブ系住民が多数を占める他の産油国とは異なり、ペルシア系の人々が多くを占めている点が特徴的です。国民の約半数がペルシア語を話し、約4分の1はトルコ系のアゼルバイジャン語を、さらに数パーセントがアラビア語を使用しています。また、クルド語、バローチ語、ロル語なども話されており、これらは一般的にペルシア語と方言関係にあるとされています。

イランでは国民の多くがシーア派イスラム教を信仰しており、スンニ派のイスラム教徒は約7.8%とされています。特にクルド人や南東部に居住するバローチ人は、スンニ派に属するといわれています。また、キリスト教、ユダヤ教、ゾロアスター教の信者も存在し、これらを合わせると全体の約5%にのぼります。シーア派は、殉教したイマームへの信仰を特徴とする宗派であり、1501年にはサファヴィー朝の創始者シャー・エスマイールがシーア派を国教として定めました。

シーア派とは、第4代正統カリフであるアリーを正統な後継者として信奉し、ウマイヤ朝の正統性を否定するイスラム教の一派です。彼らは「ガイバ(お隠れ)غیبت(ghaybat)」に入ったとされる第12代イマームの再臨を信じており、その信仰は終末思想とも深く結びついています。アリーに始まり12代にわたるイマームたちはすべて殉教したとされており、彼らの殉教の地は現在も聖地として厚く信仰されています。

カルバラーの戦い(680年1月10日)(کربلا)は、ウマイヤ朝の初代カリフ、ムアーウィヤ(معاویه)の死を契機に立ち上がったイマーム・フサイン(امام حسین)が殉教した戦いとして知られています。クーファ(کوفه)の町の住民からの要請を受け、百人足らずの同志を率いて進軍したフサインの一行は、同地の総督ウバイド・アッラーフ(عبیدالله)の率いる約4000人の軍勢と戦い、命を落としたと伝えられています。

この悲劇はシーア派(شیعه)にとって深い宗教的意義を持ち、イスラーム暦モハッラム(محرم)月には「ターズィイェ(تعزیه)」と呼ばれる哀悼劇が各地で上演されます。なお、「ターズィイェ」の期間の後には、断食明けを祝う祭り「イード・アル=フィトル(عید فطر)」が行われます。

2009年のイラン大統領選挙には、ペルシア系のアフマディネジャド氏、アゼリー系のムサビ氏、ロル系のカルビ氏、バフティヤリ系のレザイ氏が立候補しました。なお、ロル語とバフティヤリ語はいずれもロレスターン州で話されている言語です。州北部の「ロレ・クーチェク(لور کوچک)」ではロル語が、南部の「ロレ・ボゾルグ(لور بزرگ)」ではバフティヤリ語が使用されているとされます。ちなみに、クーチェク(کوچک)はペルシア語で「小さい」、ボゾルグ(بزرگ)は「大きい」という意味です。